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フェティシズムと向き合う男

私がフェティシズムに目覚めたのは、まだ若かったころのことだ。何となく、他の人々が感じる普通の性的魅力と自分の感じ方には違いがあると気づき始めたのは、十代の後半だった。友人たちと一緒に映画を観ているときや、街で見かける女性に対して、他の男子たちが普通に感じているであろう恋愛感情とは違って、私はどこか特定の物や状況に興奮を覚えることが多かった。最初はそのことに戸惑いを覚え、恥ずかしさも感じていた。しかし、時間が経つにつれて、それが自分の一部であり、隠すことが逆に不自然だと感じるようになった。

思い出すのは、初めてその「違和感」を強く感じた瞬間だった。それは、高校生の頃のことだ。放課後、友人たちと一緒に街を歩いていたとき、目にした一足のヒールの靴に、なぜか異常に引き寄せられた。普通なら見向きもしないだろう、その靴には何か魅力的な力があった。その時は、ただ「好きだな」と感じるだけではなく、その靴が放つ存在感に心が引き寄せられ、胸が高鳴った。その後もその靴が頭から離れず、自分の心の中に芽生えたこの感覚が何なのかを必死で理解しようとした。

もちろん、当時は恥ずかしくて誰にも言えなかった。それが「普通じゃない」感覚だと感じていたし、同級生たちが話す恋愛の話題に自分がついていけないことが辛かった。自分の感情や思考に戸惑い、理解できない自分に対して焦りを感じることも多かった。大人になってからも、あの頃の自分がどうしてあんなに悩んでいたのかと思うことがある。でも、それが私の個性であり、避けて通るものではなく、むしろ受け入れなければならない部分だと今では思えるようになった。

成長するにつれて、私は自分のフェティシズムとどう向き合うべきかを考えるようになった。それは簡単なことではなく、時には自分を嫌悪することもあった。でも、振り返ってみると、無理に隠すことで余計に自分を苦しめていたことに気づく。それに、誰かに理解してもらえなくても、少なくとも自分自身には嘘をつかずに生きるべきだと思うようになった。

40代を迎えて、私はフェティシズムをただの一面として受け入れ、過去の自分と向き合うことができるようになった。今では、当時の恥ずかしい思い出も、ある意味で自分を形作る重要な部分だと感じることができる。それは、他人には理解されにくいかもしれないけれど、私の個性であり、私が歩んできた道の一部だ。だれかに評価されるものではなく、自分が納得できるものだと、ようやく思えるようになった。

もちろん、この考えに至るまでには多くの時間がかかった。社会的な視線や、周囲の期待に応えようとするプレッシャーが、私を長い間苦しめていた。しかし、年齢を重ねることで、他人の目や評価よりも、自分の感情や価値観を大切にすることが、どれほど重要かに気づくようになった。フェティシズムを持つこと自体が悪いことではなく、それをどう扱うかが大切だと考えるようになったのだ。

過去の恥ずかしさは、私が今こうして自分の意見を持つために必要な経験だった。それがあったからこそ、今の自分がいるし、今後の人生でも自分の感情に素直でありたいと思えるようになった。私のフェティシズムは、他人がどう思おうと私の一部であり、それを理解してくれる人がいなくても、私は自分の歩みを進めていくつもりだ。